SNS論
16.05.29
ということで、ブログ業代打屋稼業を新人猫大好きフリスキーさんにお願いしたのですが、それを見て思ったことをば。
Facebook。
Twitter。
もっといえば、2ちゃん、mixi、LINE、Google+とかも一緒ですが。
全てに言えることは、それぞれを作った人が思い通りの結果になってないと思うのです。
人間が勝手に自分たちで暗黙のルール、流儀を決めて、今の形になり、普及していったと。
Facebookは「リア充自慢大会」で表の顔。
Twitterは「愚痴およびかまってちゃん大会」で裏の顔。
それぞれの仕様により、そういう風な棲み分けになってる気がします。
「Twitter > Facebookなのは世代のせいでしょうか?」(25歳/匿名希望/会社員)さんからのご質問には、「幸せアピールしないと精神的バランスが維持できない年代と、世の中に迎合しないことがかっこいい尖っていたい年代の差だと思います」とお答えさせていただきます。
私の世代で「尖ってます」「ただし、お金はありません」っていうのは、「私は将来も諦めながら、自己肯定しながら生きていかなきゃいけないんです」っていう無能絶望宣言にしかならないので、Facebookの方が都合がいいんだと思います。
あ、今までの話は「発言することを生業としている方々」「広告プロモーション」としての利用の場合には当てはまらず、あくまで個人的利用という範疇の話です。
私はTwitterは情報収集ツール、社会の流れを認識するためのツール、いいも悪いも含めて私が興味のある人の行動言動チェックツールという感じで愛用しております。
あと、会社のTwitterは私なりのいくつかの計算があって、やっております。
こちらは計算以上の成果を出していると思ってます。
「ファボられてない」とかそんなことはどうでもよく、物事を考える単位がファボるとかの人は、世の中のほとんどの人はTwitterをやっていない、もしくは見るためのツールとしてしか利用していないという現実が見えてないんだと思います。
ということで、じゃ、SNSというものが何で成り立っているのかといいますと、それは人の業によって成り立っていると思います。
見栄。
嫉妬。
自己肯定。
弱音。
虚勢。
愚痴。
自分より下の人間を作りたいという気持ち。
いじめ。
偽善。
そのようなところでしょうか。
業は業でいいと思うんです。
面白ければ。
最近、岡崎体育さんという自称盆地テクノの方のPVが面白くって、ついつい見ちゃうのですが、「社会ってこういうのん大好きでしょ?」と完全にディスってるわけです。
でも、そこには彼の観察眼とそれを笑いに昇華させる能力があるから、「かっこいい!」と思い、見たくなってしまうわけです。
落語とは人の業を肯定すること。
そこに笑い、興味、関心、あほらしさ、あるかないかが重要であって、結局それらは見る人に向けるサービス精神、思いやりだと思うんです。
SNSはプラットフォームが重要なのじゃなくて、書く人の思いやりに依存する媒介ですということで。
それでは、野球見るのでここまで〜。