近づく
16.05.22
どうしても、うまくいってる人、こんな風に生きたいなという人、なんでこの人はこんなに頭がいいんだろうと思わせる人の本であったり、書きもの、読みものをいろいろ読むのが、マイライフワークなわけですが、みなさん同じこと言うてるわけです。
なのに、またもや読んでしまい、「やっぱそうやわなー」と共感してしまう繰り返し。
共通項は「できないと思うからできない」「なんでできないと決めつけるんだろう?」ということを書いていて、「どうしたらできるのか?」を考え、すぐに行動し、数えきれない試行錯誤を繰り返す、だいたいおんなじです。
私は幼稚園に入るまでは自分は万能だと思っていて、自分がやりたいこと、なりたいものは全て実現すると思っていたと思うのですが、幼稚園、小学校、中学校と「社会」に接するにつれ、自分がたいした能力じゃないという現実を実感させられ、高校、大学、社会人と進んでいく中で、社会の中でどう振る舞っていいのかがよくわからなくなり、場所場所によって、自分を使い分けるようになり、なるべく自分の感情を表に出さないようにして生きてきたんだと思います。
「社会に参加すること」=「妥協」「あきらめ」「迎合」「契約」
と思ってて、ムダなこと、アホなことに付き合っていくことに意味を見出せなくなり、自分が当たり前と思う方法論でやってみて、通用しなかったら、本当に自分は社会不適合者として納得するしかないので、またあきらめて生きていくのか死ぬかどっちか考えようということで起業して今に至る。
ということで、自分の能力のなさ、凡人レベルの頭脳ということは重々に自覚しており、そこからどうするかが20代後半からの自分の人生のテーマだったんだと思うのですが、
「できないこいとは残念ながら、ある」
「できなくても、そこに近づくことはできる」
「そこに近づけないのは自分の努力不足であり、人間として負けてるだけ」
という考えが、私の根底にあって、能力がないのは持って生まれたものとか環境とかいろんな要因があると思うのですが、努力してないのは単なる自分の怠慢以外の何物でもなく、それを遺伝子や社会環境のせいにするのは本当にかっこ悪いと思ってるわけです。
自分に負けるのは、人として本当にかっこ悪い。
そんな感じで今日はお休みなので真中監督の本を読みたいですが、そんな時間はナッシング。
西松屋に家族と行かねばならないというミッション・オブ・インポッシブルが私を待つわけですが、二宮金次郎ばりに読書しながら西松屋でショッピングというわけにもいかないわけです。
歩きながらスマホでお勉強してたら、歩きスマホは危険ですと怒られたりする時代。
ニノキンに近づきたいけど、近づけない。