大阪本町制作所

[綴る]

しゃちょうのブログ

スクロール

レイアウト。

それはパズル。

生きること。

それは永遠のパズル。

デザインの指導業を生業にしていく中でバランスについて指摘していくことが多いです。

生きていく中で嬉しいことも、うっとおしいことも、見たくない景色も、我慢しないといけないことも、いろんなものがあります。

なぜ?なぜ?な日々。

はい。

いちいち「なんだこれは?」と言うもうすぐ3歳の息子。

42歳になっても終わることのない「なんだこれは?」。

ひとつ言えることは皆さん社会と業とお付き合いしながら、自分の精神のバランスを取っている。

社会における立ち位置のバランスを取っている。

私自身も、自分の社会的ポジション、精神、人間性、それらに伴う日々の行動、全てバランスを取っているんだと思います。

人間、バランスを取るという本能がなければ転びまくりますからね。

そんな感じで違和感の中で自分のバランスをどう取っていくか。

はい。

人生なかなか難しい。

単純に全力で生きていきたい。

自分なんかは必死のパッチでやらなければついていけない社会で生きていたときが一番生きている感じがしたような気はします。

記憶は自分の都合のいいように改ざんされてしまうらしいので、怪しいですが。

起業してもうすぐ丸7年。

自分自身次のステップに向かう時なのかもです。

必死のパッチの中でもがき続けてる自分の方が好きです。

周りに歩調を合わせてバランスを取っている自分は好きではありません。

ぶち殺してやりたいです。

とりあえず、自分が正しいと思う方に向かっていきます。

Illustratorがさわれる。

Photoshopがさわれる。

HTMLとCSSでコーディングできる。

それなら、デザインができるか。

答えはノーです。

残念ながらデザインという部分に関してはゼロです。

まだデザインをしたことがない方には想像できないことかもしれませんが、デザインをするということに関しては無力です。

デザインソフトやコードはあくまで道具であり、あくまで方法論でしかないのです。

では、デザイン力を身につけるにはどうしたらいいのか?

まずは知識です。

世の中のことたくさん学んでください。

世の中のものたくさん見てください。

どんな色してて、どんな形をしてるか、たくさん見て、たくさん考えてください。

そして、判断です。

それらの知識をいつ出すか、どれを出すか、どれとどれを組み合わせるかの判断です。

判断、決断がないと決まらないのです。

デザインの力を上げるにはたくさんデザインをするべきです。

そして、デザインにはほとんどのものに言葉が入ってくるので、言葉についてもマスターでなければいけません。

たくさん言葉を見て、たくさん言葉を書き、たくさん言葉を聞き、たくさん言葉を話さないといけないのです。

デザインする。

文を書く。

絶対にやらないといけないことですが、一回一回の労力・時間の問題もあり、圧倒的な数をこなすのに制約がつきます。

じゃ、どうすればいいか。

人とたくさん会話すればいいのです。

「話がうまい人」

「話が面白い人」

とたくさん会話すればいいのです。

たまたま、その人達のまわりに面白いことばかり起きるのか。

違うんです。

普段からものの見方が違うんです。

気づくか気づいてないかだけです。

そういう人がどこを見てるのか、どういう風に見ているのかじっくり考えてみてください。

独学もいいと思います。

でも、独学の怖いところは「やった気になってしまう」ことです。

やってる自分に酔ってしまって、目的である「実力を身につける」ことが全然達成できてない風景を見てきてます。

自分にもそういうことが何度もあったと思います。

そういうときは人に評価してもらえばいいのです。

頑張ったかどうかの物差しは自分じゃなくて、他人が持っています。

デザインとは社会にどう伝えていくかを考えていくことです。

社会から逃げていては単なる自己満足です。

社会とリンクを張っていく。

その中で自分のレベルを上げていく。

社会と向き合う、触れ合うことに恐れず、現状の自分の実力から逃げ出さずに、積極的になることがデザイナーとしての資質なのかなと思います。

リアルに体験したわけではないですが、幼少期世界の奥地に住む人々訪問みたいな番組を見てると、村の長老という方がおりまして。

何でも知ってる長老が、最終決定権を持つというものが多かったと思います。

たぶん、同じような理屈で王様が存在し、神様が存在し。

神様の代弁者として教会やら寺社やらが存在し。

わからないことを教えてくれる存在。

自分を導いてくれる存在。

2代目、3代目でもなければ宗教心が強い方というのが今の時代かなり少ないと思います。

では、今の時代には神はいないのか?

神というものは「存在」だと思っています。

拠り所的な。

ふと、その存在に一番近いのがGoogleなのかな?と思い、ゾッとしました。

その人が最も知りたいことを即座に教えてくれる存在。

何でも聞けば導いてくれる存在。

様々な出会いも与えてくれる存在。

人の目が当たらないところまでしっかり見ている存在。

Googleが設定した悪を懲らしめる存在。

当たり前のように自分の全てをGoogleに伝えている自分。

Google様のご機嫌を伺いながらお仕事を進めている自分。

自分と同じヒトがつくった事象を神以上に敬い、気遣いする自分。

ものすごい気持ち悪さを感じつつ。

うちの息子。

嫁さんからは育児放棄と揶揄される私ですが、家にいるとやたらと近寄ってきたり、お昼寝してたら起こされるだったりで、一応父親らしいこともできているのだとは思っています。

そんな彼ですが、なんでもマネします。

ママ、パパだけにとどまらず、テレビ、お店の店員さん。

そんな感じで昨日も帰宅後1時間ハンバーガー屋さんごっこを一緒にしてたんですが(させられたんですが)、マネのレベルも高くなっています。

かーもんべいべーあめりかー♪

耳で聞いたことを声に置き換えるレベルも高くなってきました。

彼は誰からもマネすることを強制されずに、勝手にマネしてるんです。

たぶん、マネすることが楽しいんでしょうね。

料理を作るママのマネ。

お仕事に出掛けて行くパパのマネ。

私のお仕事は育てる業なので、そんな彼を通して人間の本能を見出しがちなのですが、人は目で見たもの、耳で聞いたことをマネして成長していくようにプログラミングされているのではないでしょうか?

私は大人になればなるほど、成長していく上、生きていく上で、邪魔なものが増えていくような気がしています。

幼稚な自分、楽しいことにしか興味が沸かない自分に対して、社会からの何らかの需要があるのは、そういうことのような気もします。

私、自分の無能さは自覚しておりますので、日々自問自答、なぜなぜ問答です。

なぜ、できない人ができる人のマネをしないのか。

純粋にマネする、完コピすればいいところを、無駄な自己アレンジ、自己判断を加えてしまうのか。

生物学的に言えば、「どっちにしても死なないから」という理由になるんでしょうが、単純にマネすればいいんですけどね。

どんだけ完璧にマネしようしたって、ひとりひとり骨格も脳みそも育ってきた環境も違うから、同じになるわけはないし、その人の個性は絶対に出るんですよね。

他人のことを考えることに意味はないって思っているので(社会のことを考えいくのは生きていく上で必須なことだと思ってます)、どうでもいいのですが、一回しかない人生、人生という限られた時間、もっとシンプルにすればいいし、ひとつのことができるようになると、また次のことができるようになって、見える世界がどんどん広がると思うんですけどね。


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