大阪本町制作所

[綴る]

しゃちょうのブログ

スクロール

一喜一憂。

ここ何年かしていないのかもしれない。

野球見てるとき。

格闘技見てるとき。

そういうときは興奮してますが、それ以外で一喜一憂することはないような気が。

何があっても同じぐらいのテンション。

いいこともあればそうじゃないこともあるだろう。

いいこともそうじゃないことも全てが想定の範囲内。

そんな日常を過ごしている間にブログを更新する間も作れず、今に至るわけです。

水になれ。

起業時にイメージしたブルース・リーの言葉。

社会の変化、自分の周りの変化に臨機応変に、水のように対応しよう、と。

何があっても水のように自由に形を変えながら流れていく、しみこんでいく。

自分はダメ人間なのではないか?と思ってしまうぐらい、喜も憂も特になく。

毎日自分のできることを優先順位をつけながら一個ずつクリアし、プラスな未来に近づいていこうとする。

未来なんて予測不能だし、過去を振り返っても素敵な自分しか出てこない。

そうなんです。

私の脳みその中では、あのときの私はいつも最高の自分なんです。

どんなときもどんなときもビルの間窮屈そうになんです。

仕事の幅を増やす。

仕事の歴が増える。

一人でぐったり凹んでしまったりすることもあります。

こんなんできるんかしらと途方に暮れることもあります。

でも、後から振り返るとそんな自分の一挙手一投足が自分の中では最高にドラマチックかつヒロイックなんです。

いいぞ自分。

今年から仕事の幅をちょっとだけ広げてみたりしてて、その分ポコることも増えるわけですがトンネル抜けると夏の海が待っている裸の大将システムなわけです。

そうです。

いつも「このネタ、ブログにええなぁ」と思ってるはずなんですが、全部忘れてしまってます。

ボイスレコーダーとかに毎回録音するマメさが自分にあったら、と思いますがそんなものないところが私が大成しない所以でしょう。

ということで、今年もあと3ヶ月。

令和元年突っ走ります!

ゼロワンゼロワンゼロワンゼロワン…。

ブログの更新をせねば…。

と思っている間に9月になってしまいました。

ライダーもジオウからゼロワンに変わりました。

令和初のライダー、ゼロワン。

人工知能AIを積んだ人と見間違うアンドロイドたちと共生する社会というのがテーマみたいです。

そして最強の敵が腹筋崩壊太郎ことなかやまきんに君。

2ヶ月ぐらい前から楽しみにしてたゼロワンの登場を息子、腹筋崩壊太郎に全く興味を示さず。

3歳児にはちょっと難しいぞ、腹筋崩壊太郎。

ということで、デザインスクールの代表、一企業の代表として書く内容なのかどうかはさておき、ここまで「もしかしてデザインに関する話に結びつけているはず」と思って読んでくださった方々ありがとうございます。

全く何もないのです。

そうです。

皆さんは日々メリットに踊らされ過ぎやしませんか?と問題定義したいわけです。

メリットかデメリットか、それだけが生きる指針っていかがなものなのか、と。

メリット。

髪の根元まで届きやすい、きめ細かな泡。
落としにくい地肌の汚れまでふわっと浮かせ、すっきり洗い上げる。
さらに、ホコリや花粉などの汚れをつきにくくする「ダストシールド技術」を採用。
髪さらさらの気持ちよさが一日中続きます。

それはシャンプーの方のメリット。

皆さんの大切なお時間を8秒ほど頂戴してしまいました。

スクールの方は大盛況ですが、皆さまにとっても弊社スタッフにとってもさらにプラスな場になるように、いろいろ考え中。

乞うご期待。

息子と映画仮面ライダーを見に行く。

「映画館」という場所に恐怖心を勝手に抱いているみたいで、映画館に入るやいなやずっと大泣き。

他のお客さんに迷惑をかけるわけにもいかないので、2分で退散。

行く前に何度も「映画館真っ暗やけど大丈夫?」と確かめたし、映画館に入るまではあんなに楽しそうだったのに…。

ということで、片手に息子、片手に特大ポップコーンとドリンク2カップを持ちながら必死で移動したりしたのですが、怒ることはなく。

奥さんは息子にも私にも(←どうなるかわからないのに前売り券を買った罪)お怒りでしたが。

なぜ、私に怒りのエナジーが沸き起こらなかったのか。

私が3歳半の時、映画館に行けたかどうか覚えてないし、自分の言葉にどれだけ責任能力があったかを覚えてないのです。

自分ができたかどうかわからないことを息子に怒る資格はないし、彼も悪気があったわけではないわけで。

3歳児が誇る凄まじき想像力が現実を超えて恐怖に置き換わっちゃったみたいで。

そんな感じで楽しみにしてた(←私が)仮面ライダージオウの映画はお蔵入りとなったので、いつかどこかで機会があれば見ようと思います。

ということで、相変わらず起きてる間ずっと何かを考えてしまう私ですが(皆さんの方がもっともっといろんなこと考えているのかもしれませんが)、「想像力」っていうものについて、最近はずっと考えているかもです。

幼い息子がいたり、高校で講師をさせてもらっていたり、社会人向けのスクールを運営していたりするなかで、幼少期の教育から成人の教育まで、教育について考えるのですが、就職までは「いかに言われた通りに従えるか?」が日本の教育なんだと思うのです。

想像力、もしくは創造力を養うというよりかは、言葉や数字、数式を暗記する、穴を埋めるところに重点を置き、同じ思想で純粋真っ直ぐな人間を増殖することを最良としている気すらします。

それがいざ大人になる(職に就く)と暗記力ではなく、何もないところから仮説を立てて、行動を遂行することを求められます。

前者の仮説を立てるというところで求めらるのが想像力です。

世の中はxとy、xとyとzのようなごくごく限定された条件ではなく、五次、六次…といろんな条件があり、その中から最適化をイメージし、その仮説に基づいて行動しなければなりません。

その仮設が本当に最適解だったか、そうじゃないとすればどこに問題があったのか?いつまで最適化で居続けれるものなのか?いろんなこと考えないといけません。

敵は同業者かもしれないし、社会かもしれません。

ということで、デザインもコーディングも想像力がなければ、ただ何かをなぞってるだけのものしかならないと思います。

どうすれば、皆さんの想像力を高められるか。

その方法論に近づけれれば、私も一歩成長なのかと。

京都で起こった放火事件。

「放火しないといけない正当な理由」は1%もなさそうで、怒りとやるせなさを感じるのみです。

私のお仕事はいろいろ考えることだと思っているので、私なりにいろいろ考えてしまいました。

社会でいろんな事件、事故があり、もちろん加害者を肯定する気はないですし、被害者のことを考えるといたたまれない気持ちにならざるをえないです。

それらを前提としてお話をしますと、加害者も「社会が産んだ人格」なんだと思ってしまうことが多々あり、「この人は加害者であり被害者でもあるのでは?」と心の奥がむず痒くなります。

これは大事件、大事故だけじゃなくて、社会生活を営む中でいろんな壁にぶつかるわけですが、人の美しい部分にたくさん出会いつつも、人の醜い部分との出会いから逃げることは不可能な気がします。

その醜さに対する怒り、その当事者に対する怒りを最初に感じることはあっても、いつも「あの人も被害者なのでは?」との思いが頭の中を駆け巡ります。

「そもそも私達人間の脳が劇的な社会の変化に対応しきれてないのでは?」という私の永遠のテーマがあるのですが、その社会に対応できてない人が私も含めてたくさんいるんだと思います。

逆に大人の言うとおりに純粋真っ直ぐに生きてきて、お利口さんに無事大学に入り、大学卒業後ロケットのように切り離されて、どう生きていいいかわからない方もたくさんいるんだと思います。

そして、今は社会にすがらなくても生きていける世の中なので、その中でネットという仮想世界の中で自我を保っていたりするのでしょう。

理性が未熟な幼児と同じで、自分が一番偉い世界への回帰。

ということで、このような無慈悲な残酷な事件をいかに減らすか?

そこら中に監視カメラが備え付けられていて24時間監視される。

個人個人の日々の行動データから、この犯罪をAIが予測する。

個人個人の感情や思考が可視化され、警察が放火を未然に防ぐ。

過去の犯罪者やネットにアンチな書き込みをしている人をマーキングでき、その接近を知らせてくれる。

以上のようなことを実際に国家単位で行なっている国もありますし、いずれ全て科学の力でできるようになることなのではないでしょうか?

でも、それは多くの命を救いますが皆さんが望んでいる社会なのでしょうか?

プライバシーに対して皆さんすごい繊細です。

でも、どこからがプライバシーで、どこまでがプライバシーじゃないかっていう定義をきちんと持っている方は少ないんじゃないでしょうか。

何十もあるポイントカードシステムや、スマホでの決済システム。

あれらを使ってる時点で皆さんのプライバシーを提供していることと同じなんですけどね。

一定の割合でこういう人は存在するから諦めるのか。

もっともっと深い部分までAIの力を駆使し、犯罪を未然に防ぐのか。

どちらが正解かなんて誰も知るわけがないのです。

そもそも人類史上こんな時代はなかったわけですから、誰も正しいことなんて定義できるわけがないのです。

大切なのは自分の価値観をしっかりと持ち、今がどういう時代かをしっかりと把握し、どういう風に社会の中で生きていくかをしっかりと定義することだと思います。

インプットがないとアウトプットできるわけがないというのが私の考えなので、

「人がつくったものをたくさん見てください」

とお伝えします。

何かをつくることでお金をもらうことを生業にするなら、それは最低限であり、日常にならないといけないわけです。

うまくいかない人は「ポスターとか看板とかがあったら意識して見るようにしています」なんだとは思います。

違うのです。

都市で生活するということは、「人がつくったものの中で生活する」ということと同義語なんです。

今、あなたの身の回りにあるもの、全て人がつくったり、設計したものではないでしょうか?

ということは、全てデザインされているのです。

機能性、イメージ、そこには人の意志が落とし込まれています。

無限のデザインに囲まれる日常の中から、絶えずインプットできているか。

感性を閉ざし、無限の人がデザインしたものを「当たり前」と認識し、意識しないのか。

生きていく中でそれは微差にしかならないし、そんなことしなくても生きていけるわけです。

昔の人は五感を研ぎ澄ませないと食べ物にありつけないし、迫りくる危険から見を守れなかったわけですが、現代社会ぼーっと生きてても死ぬことはないので、意識しないと五感は鈍っていきますよね。

私はものをつくることで生きていく人にとって、それは怠慢だと思うんですよね。

このあたりは、努力じゃなくて、意識でどうにでもなることです。


Fatal error: Uncaught Error: Call to undefined function wp_pagenavi() in /home/sakagen31/www/honmachi/wordpress/wp-content/themes/honmachi/category.php:33 Stack trace: #0 /home/sakagen31/www/honmachi/wordpress/wp-includes/template-loader.php(106): include() #1 /home/sakagen31/www/honmachi/wordpress/wp-blog-header.php(19): require_once('/home/sakagen31...') #2 /home/sakagen31/www/honmachi/wordpress/index.php(17): require('/home/sakagen31...') #3 {main} thrown in /home/sakagen31/www/honmachi/wordpress/wp-content/themes/honmachi/category.php on line 33